原子力

日本の原子力開発は、大きな曲り角に立っています。エネルギー危機解決のチャンピオンとして期待を担い、莫大なお金をかけて急ピッチで建設計画が進められてきた原子力発電所もその安全性が間い直され、環境間題による住民運動の高まりに伴って原発の立地が次第に困難になってきました。その意味では昭和48年は象徴的な出来事が相次いで起こった年であり、ひき続き間題は今後に残されえということができました。最大の原発間題は、原発設置に関する公聴会制度の発足でした。アメリカでは早くから採用されていたこの制度が、日本では初の商用原発である日本原子力発電の東海発電所設置に際して一度開かれたことがあるものの、当時は制度化されておらず不十分なものでした。ところが住民運動の高揚による立地の困難さに音をあげた電力業界がその対策の1つとして住民参加の公聴会を希望し、一方早くからその開催を求めてきた地元の土地住民側や原発批判活動グループからの強い要求もあって、原子力委としても同制度の採用に踏み切らざるを得なくなりました。その最初の公聴会は、昭和48年9月18、19の両日福島市で開かれました。東京電力福島第二原子力発電所1号炉の設置に関する公聴会す。しかし、その実施に当たって、原子力委員会は、国民に原子力を正しく理解してもらうとともに、住民の生の声を間いて、原発の安全審査に反映したいとしながら、現実には意見陳述者の選定を原子力委が行い、陳述要旨は事前に提出させ、会場の狭さを理由に傍聴人の数や言動を厳しく制限するなど、さまざまな枠をはめました。これでは住民の意思は反映されず、極めて非民主的だ。単に閉催したというだけで、むしろ住民の口封じの目的しかない、と批判の声が上がり、社会党系の住民運動グルーブは、ごまかし公聴会としてボイコットの態度をとりました。
住民運動にからんだもう一つの動きは、原発訴訟です。瀬戸内海に面した愛媛県の伊方町で四国電力が進めていた伊方原子力発電所の建設に反対する地元住民達は、昭和48年8月、田中首相を相手どって、47年11月に首相の出した同原発原子炉設置許可は違法により取消しを求める、との行政訴訟を、松山地裁に提出しました。それまで研究用の炉で同様な訴訟は大宮市で起こされましたが、発電炉では初めてで、今後の各地の原発反対運動に与える影響は大きいとみられました。伊方原発訴訟で、原告の住民側があげている違法性は、安全審査にかけた日数が短く科学的調査が不十分、安全を裏付ける設計資料の公開や住民の意見を聞くことなしに許可を決めたのは原子力基本法に違反、現地は地震の巣であるのに地理的条件を軽視した、非常用炉心冷却系ECCSなどに欠陥があるのに安全と認めた、温排水の影響調査が不十分であるなど、他にも放射牲廃棄物の処分間題なども説明が不十分だとして、建設許可を取り消すよう求めたわけでした。原子炉の安全性については、この訴訟でも指摘されているECCSの不備の他、アメリカ製の加圧水型、沸騰水型両原子炉には、燃料棒の変形、燃料体の収縮、熱交換器の蒸気紬管ひび割れ、などの故障が続出しており、不安を投げかけていました。日本に導入されている炉は一基を除いてすべてこの両型なので、米原子力委員会がこれらの理由によって原子力発電所の出力削滅などの処置をとる度に、日本でも原発あるいは同建設予定地の住民は不安を覚えさせられました。アメリカのこうした欠陥騒ぎとは別に、運転中の原発や研究用原子炉での事故が続発していました。廃液漏れによる係員の放射能被ばくや、発電の停止に至る事故は多い。昭和47年度の日本の原発の設備利用率は平均59.8%つまり半分ぐらいの出力でしか稼働していないわけで、開西電力美浜1号炉にいたっては36.7%と3分の1しか実働していませんでした。これでは、原子力委や電力会社がことあるどとに原発は安全と言ってみても、住民が額面通りには受けとらないのも無理はありませんでした。日本の原発はいずれも人ロ密集地帯を避けて、田舎の過疎地域に集中するわけで、電力というものは、それをより必要とするのは、工業地帯であり大都市である。発電所のできる地元住民にとっては、家計的にも直接の必要性はなく、あるのは環境や安全性への不安です。反対や疑問を持つ気持は当然ともいえます。当局側、会社側としても安全性についての十分な調査研究と開発を進めそれに基づいて公明正大な根拠を示し、地元住民との間に納得のいく話合いをしながら計画を進めなければなりません。

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